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希望日本賛同議員国会発言データベース

賛同議員の国会での各会議・委員会における発言がご覧いただけます。

(議員の所属政党は、委員会等での発言時のものとしています。

また、名前の前に※印がついている議員は、以前の賛同議員です。)

羽田雄一郎先生のご訃報に接し、衷心より哀悼の意を表します。

発言の詳細を表示します。


議員名野田聖子(自由民主党)

2019年11月12日

委員会名衆議院 本会議


「ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員宮川典子先生は、去る九月十二日、逝去されました。よわいいまだ四十。政治家としてより一層の活躍が期待されていた中での余りにも早過ぎる訃報は今もって信じがたく、ましてや御遺族の御心痛はいかばかりか、お察しするに余りあり、お慰めの言葉もございません。私は、ここに、皆様の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。宮川典子さんは、昭和五十四年四月、宮川家の父節也様、母晴美様の長女として東京でお生まれになりました。しかし、お父様の、子供はどうしても山梨で育てたいとの強い希望で、御両親のふるさと山梨にお移りになりました。典子さんは、わずか十歳のときに最愛のお父様を亡くされましたが、御親戚やまるで家族のような御近所の皆様、そしてたくさんの御友人に囲まれ、山紫水明の地で健やかな幼年期を過ごされました。幼稚園の授業参観で、私語をする大人たちに、おしゃべりをする人は出ていってくださいとぴしゃりと言ったように、幼いころから正義感が強く真面目だったと伺っています。また、小学生から打ち込んだ水泳では、全国ジュニアオリンピックに出場、日本ランキングで五位になるなど、国内でも有数のスイマーとして活躍されました。山梨学院大学附属高等学校では、仲間と切磋琢磨し勉学に励まれるとともに、ロックバンドを組んで学園祭でライブをされるなど、充実した学生生活を送られました。平成十年に高校を卒業されると、地元山梨を離れ、東京の慶応義塾大学に進学されます。おじい様やお母様など、お身内に教職についている方が多いという環境の中で、教育ほど重要な分野はないとの思いから、典子さんは教育学を専攻されました。当時、教育制度や教育現場を変えたいと、文部科学省で教育改革に取り組むことを考えておられたと聞いております。しかし、大学四年生のとき、恩師の、現場で味わう経験は何物にもかえがたいとの言葉に後押しされ、典子さんは教鞭をとることを決意し、母校である山梨学院大学附属中学・高等学校に奉職されました。人に交るには信を以てす可し。己れ人を信じて人も亦己れを信ず。典子さんは、福沢諭吉の残したこの言葉を座右の銘とし、真っ向から生徒に向き合っておられました。ある日、授業で教科書を出そうともしない野球部の生徒たちを注意したところ、野球部だから野球だけをしていればいいんだと、彼らが野球道具一式をどんと机の上に置いたことがありました。典子さんは敢然と道具一式を窓から放り投げるという挙に出られたそうです。道具を投げられた生徒たちはもちろん、他の先生方も随分驚いたことでしょう。しかし、典子さんは、生徒たち自身が間違いに気づき、そしてみずから解決してくれるものと信じていたのです。その対決の後、大の仲よしとなった元生徒たちから誘われ、国会議員になられてからも一緒にスタンドで高校野球の応援をしていたそうですね。その際、周囲の観客たちへ自慢の教え子だと紹介していることに、厳しくも深い愛情を持って子供たちに向かい合おうと心がけていた典子さんの姿勢がしのばれます。五年間の教員生活で、典子さんは中学、高校の全学年で教鞭をとられ、教師として充実した日々を送られる一方、教育の現場を通じて、教育に今何が必要なのか、何に取り組むべきなのか、多くの課題を感じ取られました。そして、子供たちが未来に希望を持てるように、努力が報われる社会にしたいとの志を強め、日本の社会全体を教育によって改革する道を目指そうと、教師として何よりも愛する子供たちとの生活を離れ、政治の世界に踏み出す決意をされます。平成二十二年に、「教育」で日本を建て直すとの思いを胸に、参議院議員通常選挙に立候補。大健闘するも惜敗。平成二十四年、第四十六回衆議院議員総選挙において、地元山梨県第一区から立候補され、見事、初当選の栄誉に輝き、志を実現するための第一歩を踏み出され、以来、衆議院議員を連続三期務められました。本院に議席を得てからは、主に、文部科学委員会、法務委員会の各常任委員会、政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会、青少年問題に関する特別委員会、地方創生に関する特別委員会の理事や委員として御活躍されました。また、安倍内閣では、平成二十九年八月に、当選二回にして、念願の文部科学大臣政務官に就任。引き続き、同年十一月に再任されました。政務官の任期中に策定された第三期教育振興基本計画では、典子さんの信念である、教育を通じて生涯にわたる一人一人の可能性とチャンスを最大化が、教育政策の重点事項として据えられました。また、御自身の教員経験を生かし、グローバル教員を育成するトビタテ!教員プロジェクトの立ち上げを主導されました。空理空論を嫌った典子さんは、現場を経験している者として、政治、行政と現場のずれを発信し、現場が求めていることを実行したいという意気込みで、昨年十月までの一年二カ月間にわたり、文部科学行政の中で、現場経験に基づく視点に裏打ちされたすぐれた実行力を発揮されました。退任に当たって、一つでも多くの仕事をやろうと取り組んだ、一日二十四時間では足りないと思ったこともあると述べられたのは、教育の現場と課題を知り尽くした典子さんだからこその御発言でしょう。一方、自由民主党におきましては、女性局長代理、環境部会長代理、青年局次長などを歴任され、教育行政以外にも精力的に取り組んでこられました。児童相談所や児童養護施設に積極的に足を運び、児童相談所全国共通ダイヤル「一八九(いちはやく)」の創設に尽力されました。また、いわゆるリベンジポルノ防止法の成立、女性アスリートが抱えやすい疾患対策とその啓発活動にも取り組まれました。その中でも、特に私が思い出すのは、最終的には昨年の通常国会で衆議院、参議院ともに全会一致で可決、成立した、政治分野における男女共同参画の推進に関する法律への取組です。これは、国及び地方議会の選挙において、男女の候補者数ができる限り均等となることを目指すものです。超党派の議員連盟で、典子さんが事務局次長を、私が幹事長を務め、起案の段階から活動をともにしておりました。議員連盟で検討を始めた平成二十七年当時は、与野党間の足並みがそろわず、なかなか議論が進みませんでした。自民党内でも慎重論が根強く、最初の部会では了承が得られませんでした。しかし、あなたは諦めることなく、むしろ、それまで以上に熱く、そして粘り強く、百名を超える国会議員に法律の必要性を説いて回られるなど、八面六臂の活躍をされました。ようやく党内で了承されたあのとき、ひな壇に座っていた典子さんは、涙を流して喜んでいましたね。この法律が成立した昨年五月、病床にあった典子さんからメールをもらいました。病院のベッドでこの日を迎えるとは思いませんでしたが、とにかく、成立してうれしい。また、あなたはそのメールの中で、困難もあったが、結果、私を育ててくれた法案であったとも振り返っていましたね。あの日、一緒に祝杯を上げることはできませんでしたが、いつも前向きなあなたとどんな形であれ喜びを分かち合うことができて、本当にうれしかったです。典子さんは、議員になられてからの七年間、未来に希望を持てる社会を実現するため、走り抜いてこられました。典子さんの政治家人生をかけた目標は、「教育」で日本を建て直すでありました。これは、単なる教育改革にとどまらず、日本の建て直しを目指す大きなものでした。まだまだ道半ばではありますが、いつの日かこの国の、国及び地方の議会のみならず社会において、女性も男性も、変わらず当たり前に活躍できる日が来るとしたら、典子さん、あなたはそのきっかけを生み出した功労者の一人であり、教師宮川典子が未来の日本政治に残した最大の功績となることでしょう。それにしても、早過ぎます。まさかこんなに早くお別れすることになるとは考えもしませんでした。昨年、典子さんの地元山梨を家族で訪れた際、典子さんのお母様も交え、両家族で食事をしましたね。初対面にもかかわらず、不思議とお母様とは何でも話すことができました。そして、典子さんから私の息子にと贈っていただいた開運御守護印を息子は今でも大切にしています。家族ぐるみでつき合える友人ができて、私はとてもうれしかったです。政策実現のために、粘り強く同僚議員に説得を重ねられていた典子さん。議員事務所で百三十人を超える学生をインターン生として指導した典子さん。忙しい中でも家族との時間を大切にしていた典子さん。そんな日々がもっともっと続くはずでした。お母様譲りの、どんなにつらいときでも元気で明るい典子さんの笑顔を、もう見ることはできないのですね。これからも難しい案件のときにはぜひ呼んでくださいと言ってくれていたあなたと、もっともっと一緒に仕事がしたかったです。常に御自身の原点である教師として、教育の力を信じ、若者の可能性と未来を信じ、国家国民を信じ、果敢に問題解決に挑み続けた強くも優しい典子さんを失いましたことは、地元山梨のみならず、本院にとっても我が国にとっても、この上ない大きな損失であると言わなければなりません。ここに、謹んで宮川典子衆議院議員の御生前の御功績をたたえ、その人となりをしのび、心から御冥福をお祈りいたしまして、追悼の言葉といたします。」


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